夏浅く 焼夷弾祖父に 直撃す
私の祖父は昭和のグラフィックデザイナー(広告図案家)でしたが、終戦近いころは予備役の将校でもありました。昭和20年には硫黄島への招集が決まったものの、すでに日本に兵隊を送る船はなく、国内で待機していたそうです。その5月29日、横浜大空襲にあい、住んでいた羽衣町の家から当時15歳だった私の父とともに掃部山に逃げたところ、焼夷弾を束ねていたバンドのバックルが頭部を直撃して即死したと聞きました。自分の親が、脳漿をこぼして息絶えた姿を、すぐ隣で見ていた私の父の衝撃はいかばかりか。人の「死」がいまよりも身近なものであったとしても、その後の人生に与えた影響は想像を超えるものに違いないでしょう。そんな悲劇があっても、それでも人は生きる。父もすでに故人ですが、戦争の時代を超えてきた人たちの強さを感じずにいられません。
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